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奇跡の映画 カール・テオドア・ドライヤー セレクション

世代を超え敬愛される、世界映画史が誇る孤高の映画作家
魂揺さぶる珠玉の4作品がデジタルリマスターで甦る。

19世紀末にデンマークで生まれ、常に独創的で革新的な作品を生み出しながら、一貫して人間、特に女性の心の真髄をフィルムで捉え続けた、世界映画史が誇る孤高の映画作家カール・テオドア・ドライヤー。 ジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォー、イングマール・ベルイマンなどの巨匠たちからアルノ―・デプレシャン、ギャスパー・ノエといった現代の先鋭たちにまで多大なる影響を与え世代を超え敬愛されています。
大戦が二度起き変革の渦中の時代にあっても粛々と映画制作に情熱を注ぎ、79年の生涯で長編14作品を発表。被写体を見つめ、モノクロームの世界を巧みに操り、新たな映画芸術の可能性を示し続けてきました。
今回は、ゴダールが『女と男のいる舗道』で引用したことでも有名な『裁かるゝジャンヌ』とドライヤー後期3作品がデジタルリマスタリングされ、スクリーンに甦ります。映像表現のアプローチに多様な顔を持つドライヤー作品をとくとご堪能ください。


「映画は私の唯一の情熱だ」

カール・テオドア・ドライヤー(Carl Theodor Dreyer, 1889年2月3日~1968年3月20日)

1889年2月3日、コペンハーゲンで貧しい農民の出であるスウェーデン人の母とデンマーク人の地主の子供である父のもとに生まれる。父親が認知しなかったため私生児となり、経済的理由から1890年にデンマークのドライヤー家に養子に出され厳格な養父母のもとで育つ。なお18歳の時に、生母が既に死んでおり、彼女が不遇の人生を送っていたことを知る。学校卒業後はすぐに養父母の家を出て通信電話会社に就職。ほどなくしてジャーナリストに転身し、地方紙に匿名で演劇評を書き始める。その後、保守系の大手新聞会社に雇われ、当時最先端のスポーツの一つであった航空機に興味を抱き自らも気球飛行をするほどのめり込んだ。結婚するまで気球飛行のルポルタージュ等を雑誌に発表していた。
結婚後は急進派の新聞社に移り、ペンネームで映画評を書き始める。その映画評が大手映画会社の目に留まったことから映画の脚本執筆を開始。数多くの脚本を手掛けたあと、1919年に『裁判長』で監督デビューを果たす。2作目の『サタンの書の数ページ』を発表した後、デンマークでの映画製作状況が悪化し、スウェーデン・ドイツ・ノルウェーと国を越境して製作を続けることに。7作目である『あるじ』(25)のフランスでの大ヒットが『裁かるゝジャンヌ』製作へと繋がる。しばしば困難に見舞われながらも、『奇跡』がヴェネチア国際映画祭の金獅子賞を受賞を果たす。切望していた「ナザレのキリスト」映画化実現を目前に控えた1968年3月20日に息を引き取る。享年79。